滝廉太郎について 滝廉太郎は、明治12年(1879年)に東京都で生まれました。その後、ドイツに留学しています。しかし、病気を患い帰国。父の故郷の大分県で療養するも回復することはなく23歳で死去しました。 「花」以外の代表作は、「荒城の月」「箱根八里」「鳩ぽっぽ」「雪やこんこ … 彼は日本に入ってきた西洋音楽を取り込んだ日本独自のオリジナリティー溢れる曲を世に出し、「花」など多くが唱歌として教育現場でも採用され、日本の音楽教育にも多大な影響を与えました。, 今回は明治時代に登場した天才作曲家・滝廉太郎の生涯や時代背景を検証しながら、彼が産み出した「憾み」などの作品を解説して行きたいと思います。, 1879年(明治12年)8月24日、滝吉弘(たきよしひろ)の長男として東京府芝区(現在の東京都港区)で生まれました。, 滝家は豊後国日出藩家老職の名門の家柄で、父・吉弘も上司が大久保利通(おおくぼとしみち)や伊藤博文(いとうひろふみ)という内務省官僚でした。, 父の転勤に伴い、各地の尋常小学校を転々とした後に東京音楽学校(現在の東京芸術大学)に入学し、ピアノの演奏でメキメキと頭角を表し始めます。, 1900年10月7日、東京市麹町区(現在の東京都港区)の聖公会グレース・エピスコパル・チャーチで洗礼を受けてクリスチャンとなります。, メヌエットは日本人作曲家初のピアノ独奏曲で滝廉太郎が作曲した曲では珍しい器楽作品(歌詞がない)でした。, この頃の日本の音楽事情は外国曲に日本語歌詞をつけた「蝶々」、「仰げば尊し」、「蛍の光」などばかりで作詞、作曲ともに日本人というのは存在しませんでした。, このため日本独自のメロディーを求める雰囲気が世の中にあり、また学校の教育現場でもそれらが求められていました。, 滝廉太郎が1901年に作曲、土井 晩翠(どい ばんすい)が作詞した「荒城の月(春高楼こうろうの花の宴えん~)」鳥居忱(とりいまこと)が作詞した「箱根八里(箱根の山は、天下の嶮~)」はこのような時代背景にマッチし、文部省が編纂した中学唱歌に掲載されました。, 国内で作曲家の才能を開花させた滝廉太郎は、1901年にドイツ・ベルリンへ留学、バイオリニストの幸田幸(こうだこう)、クラリネット奏者・吉本光蔵(よしもとみつぞう)と交友を結び、結婚行進曲を作曲したメンデルスゾーンが設立したライプツィヒ音楽院に文部省外国留学生として入学、勉強を始めますがわずか5か月後に肺結核を発症します。, ドイツで治療を受けるものの進展がなく、翌1902年日本に帰国し、父の故郷である大分県で療養しましたが1903年(明治36年)6月29日午後5時、全ての才能を開花させることなく24年の短い間生涯を閉じました。, JR九州豊後竹田駅では列車の接近メロディとして使用されており、ドイツ出身のハードロックバンド・スコーピオンズが1978年の来日公演で演奏しています。, 他にも2016年のアカデミー賞で13部門にノミネートされ6冠を受賞した「ラ・ラ・ランド」の作中でも使用されました。, 演奏時間は約2分、滝廉太郎の作品の中では珍しい器楽作品で、死の数ヵ月前に書かれた作品とされています。, 憾が書かれた楽譜の余白には「Doctor!Doctor!(医者!医者!)」と走り書きがあったとされており、晩年の滝廉太郎の生命への緊張感を伝えています。, 1900年(明治33年)に発表された歌曲集・四季の第一曲として作られたものですが、第二曲・納涼、第三曲・月、第四曲・雪がほとんど知られていないのに対して、花だけが一人歩きし有名になりました。, 滝廉太郎はこの曲を発表したときに「日本語の歌詞に日本人が作曲した曲を付けて世に出すことによって日本歌曲の発展に寄与したい」と発言したそうです。, 明治時代の日本には西洋文化を大量に導入し、欧米列強に追い付け追い越せが合言葉でした。, しかし、日本政府は音楽教育の充実などを目的として日本人によるオリジナル楽曲を必要としており、そのお眼鏡に叶ったのが滝廉太郎でした。, 滝廉太郎が作曲した曲は、日本語歌詞が西洋音楽のメロディラインに違和感なく乗るように作られており、日本語と西洋音楽を上手く融合することに成功しています。, このため外国人が滝廉太郎の楽曲を演奏したり、メディアで取り上げたりすることが違和感なく現代でも行われています。, 滝廉太郎の楽曲は日本人に馴染むように作られたものですが、結果的には世界で通用するグローバルソングとしての評価を受けることになりました。, 現存する楽曲はわずかに34曲ながら、日本の音楽教育とその後の日本音楽の方向性を示した功績は比類なきものだと言えるでしょう。, いまだに歌われ続ける多くの滝廉太郎の楽曲は、日本だけでなく諸外国で評価され、日本音楽黎明期の代表作とされています。, もし滝廉太郎が24歳足らずで生涯を閉じずに50、60歳と長生をしていたらどのような曲を残し、どのように日本の音楽界をリードしていったのでしょうか?, 今ではそれを知ることは出来ませんが、彼の作った歌で心癒され、穏やかな気持ちになれることは現代に生きる数多くの人が経験しているのではないでしょうか。. 「花」(はな)は、瀧廉太郎によって作曲された楽曲。もともとは1900年(明治33年)同年11月1日付に共益商社出版から刊行された歌曲集(組歌)『四季』の第1曲であった 。. 「花」(はな)は、瀧廉太郎によって作曲された楽曲。もともとは1900年(明治33年)同年11月1日付に共益商社出版から刊行された歌曲集(組歌)『四季』の第1曲であった[1]。, 東京都墨田区では、本曲を「区民の愛唱歌」に指定している[2]。隅田公園の台東区側には本曲の歌碑がある。, 本来のタイトルは「花盛り」であったが、第3曲「月」、第4曲「雪」と合わせるために「花」にした(雪月花)という。「荒城の月」、「箱根八里」と並び、滝廉太郎の歌曲の中でも広く親しまれている曲のひとつである。歌詞は武島羽衣によって作詞された。速いテンポの二部形式で書かれ、当時隅田川で盛んであった漕艇(ボートレース、レガッタ)の様子など、春の隅田川の情景が歌われている。, ピアノ伴奏付きの女声二部合唱、もしくは女声二重唱また、混声二部合唱、混声二重唱で歌われる。3番まで歌詞がある有節歌曲形式に基づくが、単純な繰返しではなくところどころで旋律を変えている。イ長調[3]・4分の2拍子で書かれており速度記号はAllegro moderatoとなっている。, 歌曲集『四季』の他の曲は、第2曲が「納涼」(作詞:東くめ、単声とピアノ用)、第3曲が「月」(作詞:滝廉太郎自身による、無伴奏の四部合唱)、第4曲が「雪」(作詞:中村秋香、四部合唱、ピアノとオルガン用)と題されている。しかしもっぱら第1曲「花」のみが有名になり、他の3曲はほとんど知られておらず、歌われることも滅多にない。ただし後年に三善晃が編曲した「日本の四季」には4曲とも含まれている。, 初版の序文で滝廉太郎は、「(当時作られていた)日本の歌曲は教育用の学校唱歌ばかりで質の高いものが少ないため、微力ながら日本語の歌詞に作曲した曲を世に出すことによって日本歌曲の発展に寄与したい」という趣旨の発言を残している[4]。, 1番の歌詞は源氏物語「胡蝶」の巻で詠まれた和歌「春の日のうららにさして行く船は棹のしづくも花ぞちりける」によったものであり[5]、3番は蘇軾の詩「春夜」の一節「春宵一刻値千金」(春の夜のすばらしさは、ひとときが千金にもあたいするほど貴重なものだ)からの着想である。, 文部科学省が制定している「中学校学習指導要領・音楽編」では1♯(ト長調・ホ短調)、1♭(ヘ長調・ニ短調)まで程度の調号の楽譜が読譜指導の範囲とされていることもあり、義務教育用教科書には長二度低く, http://a-babe.plala.jp/~jun-t/Taki-Four_Seasons.htm, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=花_(瀧廉太郎)&oldid=80404442.