第4回 7月3日 ・保護者との意見交換 第5回 8月6日 ・みつば保育園の現状共有(委員より) ・今後の進め方について 第6回 9月25日 ・事故後の見直し、改善状況報告(教育委員会事務局) 第7回 10月22日 ・町立4園 園長との意見交換 昭和一七年以降、日本軍が劣勢になると兵器庫に何百本と眠っていた九三式魚雷を改造して脱失装置のないまま、自らが体当たりする「人間魚雷」が出来ました。「天を回らし戦局を逆転させる」という意味で「回天」と名付けらたそうです。 (光人社NF文庫), EOS 40D + SIGMA 18-125 F3.8-5.6 DC OS HSM. 2019年8月12日の山口県周南市・徳山の歴史散策の続き。 「大津島公園」の中にある「飛行科入口門」を見学し、「回天整備工場跡」に残る「コンクリート塀」「階段… ^•½¶’¬—ðŽj–¯‘­Ž‘—¿ŠÙ. 「大津島公園」の中にある「飛行科入口門」を見学し、「回天整備工場跡」に残る「コンクリート塀」「階段」「点火試験場」等を見学した後は、「回天記念館」に向かいました。, https://ameblo.jp/indyaki12/entry-12539460667.html, 「回天記念館」へと続く坂道を上って行くと、「大津島回天碑及び回天記念館沿革」という石碑がありました。昭和20年11月10日に最初の回天記念碑が建立され、昭和30年に戦後第一回慰霊祭、昭和43年に「回天記念館」が完成とあります。, その石碑の横に、石柱があって、真っすぐに延びる道が…。こちらが「回天記念館」の敷地の入口になります。, 地元のライオンズクラブが「回天烈士の霊」と、謎の爆沈をとげた戦艦陸奥の犠牲者を悼み、平和を祈念して、戦艦「陸奥」の艦材をもって梵鐘を謹鋳し、回天徳山基地に建立したものになるんですね。, 戦艦陸奥の三番砲塔にあった「薬莢」の砲金約100kgを素材として鋳造したもので、直径90cm、重さ850kg、宇治平等院の国宝の鐘と同じ様式です。, 「回天一型(レプリカ)」。「回天」は昭和19年(1944)旧日本海軍が九三式酸素魚雷を改造して造り上げた一人乗りの魚雷です。, 太平洋戦争の末期、昭和19年に起死回生の特攻兵器として造り上げられたのが人間魚雷「回天」です。, 太平洋戦争が始まった当初、旧日本海軍は優れた性能を誇る艦船発射用の九三式酸素魚雷を使った野戦を得意としていましたが、米国でのレーダーの開発とともに、米国艦船に近付くことができなくなり、その結果、九三式酸素魚雷は使われなくなります。, 戦局は悪化し、新たな兵器により形勢を逆転する必要から、倉庫に眠っていた九三式酸素魚雷を改造して開発されたこの「回天」で、昭和19年2月に「回天」の試作機の製作が呉市にあった海軍工廠で始まり、7月までに3機が完成、7月25日から呉市大入にあった魚雷発射試験場で試験航行が始まり、8月1日は、海軍大臣により正式に兵器として採用されました。, この「回天」は操作が煩雑で難しく、また本来魚雷であることから停止、後退もできないこと等により、大津島で9月5日から始まった訓練では事故が多発し、15名の殉職者を出すことになります…。, 「回天」は、炸薬量や航行速度などを増加させることを目的に改良型の開発も進められましたが、戦地で実際に使用されたのは、「回天一型」(一部改良型を含める)のみで、約420機が製造されました。, 全長14.75m、直径1m、重量8.3t、エンジン出力550馬力、速度・航続距離。航続時間は、10ノット(18.52km/h)で78km・253分、20ノット(37.04km/h)で43km・70分、30ノット(55.56km/h)で23km・25分、炸薬重量1,55t、乗員1名(搭乗員訓練時は2名)。, 「回天一型」のレプリカに近付いて…。まずは、先頭から…。この中に、炸薬と起爆装置、電気信管が入っていて…。, 真ん中辺りには、水防眼鏡が上部に出ていて…。所謂、潜望鏡ですが、この下に操縦席がありますが…。この細くて狭い所に入れるんだろうか?というのが、第一印象です…。, こちらは、「六年式(または四四式)魚雷」。この説明板背面のエンジンを格納しているシャーシの直径がおよそ55cm、その内部に燃焼室と主調和器、スクリュープロペラ軸に対して同心円上に並んだ4つのピストンシリンダー(星型4気筒)が確認できることから、この魚雷は大正6年に兵器として採用された「六年式魚雷」が、明治44年に採用された「四四式魚雷」と推定されます。, 「六年式魚雷」は、日本海軍が初めて製造した国産の高圧水蒸気によりピストンを作動させるウェットヒーター式魚雷で、潜水艦で使用されるものでした。その技術は後に、艦船から発射される直径61cmの「八年式魚雷」に引き継がれます。, しかし、スクリュープロペラの回転軸に対して気筒を垂直に配置するより横に設置する方が高出力を得られることから、その後は左隣の「九三式魚雷」に見られるように横型2気筒タイプのエンジンに変わって行きます。, この魚雷は、他の場所からの搬入記録が見られないことから、島内の整備工場内に保管されていたものと推測されます。, こちらは、「九三式酸素魚雷のエンジン」。昭和8年(1933)旧日本海軍が世界に先駆けて開発した純酸素を酸化剤に使用した無航跡の艦対艦用の高性能魚雷で、「回天」の推進装置として採用されました。, この魚雷は、空気の代わりに酸素そのものを酸化剤として使用する為、排気ガス中に窒素や酸化物が排出されないことから、航跡の発生を抑えられ、敵艦から発見され難いという優れた性能を有していました。, しかし、酸素と燃料のケロシン(灯油)を最初から混合して燃焼させると、高温で燃焼することにより燃焼室が溶解してしまう為、各国では開発に困難を極めました。, そうした中、旧日本海軍の技術者たちは、エンジン始動時は燃料を空気と燃焼させ、その後、徐々に酸素に置き換えて行けば安定して燃焼することを発見、その実用化に成功しました。, また航続距離が長いと言うと特徴もあり、「回天」のエンジンに利用するのは最適でした。, このエンジンは、終戦時、海中投棄されたものを防府市野島の漁業者が引揚、航空自衛隊防府北基地が保管し、その後、当記念館が譲り受けたものです。, 人間魚雷「回天」は、太平洋戦争末期、「天を回らし、戦局を逆転させる」という願いを込めて、誕生しました。魚雷に大量の爆薬を搭載し、隊員自らが操縦して戦艦に体当たりするという特攻兵器で、隊員の訓練施設が置かれたここ「大津島」には、全国から20歳前後の精鋭たちが集まり、毎日厳しい訓練を繰り返していました。, 今を生きる私たちは、人間魚雷「回天」の史実をここに記し、祖国を愛する者たちの為に自らの命をかけた彼らの後世への思いを永く語り継いで行かねばならない…。, そして、「祖国を救うために」。祖国を守りたいとの一心から特攻兵器「回天」は誕生しました…。, https://www.city.shunan.lg.jp/site/kaiten/, https://localkyushu.blogmura.com/fukuoka_town/ranking.html?p_cid=10197823, 回天記念館(その1)~海の特攻兵器人間魚雷回天の記憶 ~山口県周南市大津島の戦争記念館・戦争遺構 | 九州下町おやじの珍道中.